昭和47年6月3日 朝の御理解
中村良一
御理解 第62節
「昔から、人もよかれわれもよかれ、人よりわれがなおよかれというておるが、神信心をしても、わが身の上のおかげを受けて、後に人を助けてやれ。神信心も手習いも同じこと、一段一段進んでゆくのじゃ。にわかに先生にはなれぬぞ。」
わが身の上におかげを受けてと、これはまぁ、私の体験ですけれども。お商売させて頂いて、私、お得意さんが出来ますと、もうそこは、金光様の信心になりなさったといった様な気分でしたですね。もう必ず、私の話を聞かんにゃならん。もう商売の事は、あっちのけにして神様のお話をする。それでもう、ほらまた、こんこんさんのこらっしゃったぞち言うてから、言われるくらいに、やっぱ、ありました。もう、汽車に乗っておれば、汽車の中で、電車に乗れば電車で、もう横に乗りなさった人は、ご親縁が出来なさったといった様な考え方ですよね。もう、ですから、お話しなけりゃおられなかった。ですから、そういう、例えば、止むにやまれないという様なものが、確かにありましたけれども。それからと言うて、ほんなら、一人も、一つも助かっていないですね。さぁ、強引に引っ張っていくのですから、無理にお導きして、なるほど、お参りをした方も、ずいぶんあります。そこそこの教会でね。そこの近所の教会にお導きをする訳なんです。けれども、それで、本当に助からなかったですね。やはり、こちらが、本当に、段々、本当の意味で助かりだした。そら、おかげを受けるという事じゃないですよね。心の上に、おかげを受けて参りましてからは、段々、今度は、人が助かるようになってきたように。ですから、それはもう、過程です、やはり。一段一段です。だから、それがいけないという事じゃないです。いわゆる、相手は助からなかっても、こちらは、一生懸命に、例えば、なっておる。その事は神様が受けて下さらない筈はないですけれども。まず、わが身におかげを受けて、後に人を助けてやれとこう仰っておられる。後に、人が助かるということになるという事は、だから、やはり、自分が、本当の意味で、段々、助かる度合いというか、助かっておる、その助かり具合というものが、本当の助かりになってきておらないと、人も助からないという事になります。
けれども、ほんなら、それが、決して無駄じゃないのですよ。それだけ、神様へ一途に向かうというのですから。そして、そこで、感じさせて頂く事は、はぁまぁだ俺はつまらんなぁという事と同時にですね。四神様の御教えにあります様に、真で成就せぬ事はないと。真で成就せぬ事はない、成就せぬその時は、氏子の真が欠けたと悟れと仰っておられる。はぁ、まあだまあだ、不純なものが、まあだまあだ、真じゃないと、その真というものを追及して行けとこう。ですから、そこの辺のところも、一段一段、真から、より本当の真へと進んでいくという所を、今日は、教えておられるんですね。今日は、そこんところに焦点をおきたいと思うね。神信心も手習いも同じこと、一段一段進んでいくのじゃ。にわかに先生にはなれぬぞと。一段一段進んでいく、まぁ進もうとする姿勢というか、そういう願いを持たなければいけん訳であります。
昨夜、遅う、テレビを見せて頂いておりましたら。もう古い映画で、市川雷蔵主演の、何とかというのがあってました。大変腕が立ちます。それで、殿様の、いつも傍についておる、殿様を守って差し上げるという役なんです。どこへ出られるでも、傍についておるという。それで、ある大事な御用のために出かけ。そこから、そこに、その殿様を狙っておる人達が出て来ますけれども。何時も無事で、殿様を守ることが出来るとこういう。そういう事が、茶室で二人お茶を頂きながら、殿様が、若い雷蔵演ずるところの、何とか、新吾か何とか言いますよね。という侍に、言うておられます。ちょっとしたセリフでしたけれども、もう、その聞いておってから、見とってから、えらい感動したんです。その方のおかげで、大事な御用が務まったと、殿様は言っておられるんです。勿体のうございますという、たった、それだけのことなんです。その方のおかげで、無事に大役が務まったぞと。ええ、勿体のうございますと。私はその、本当に、私どもの信心というものがね。まぁ、神が一礼申すと仰るようなところが、教祖のご伝記にもありますが。神様が、お礼を言うて下さるほどしの、ね。私は、そういう係り合いというものが、いよいよ、深うなっていかなきゃならない。それにはね、 不純なものがあっては、そういうところまで参りませんですね。
もう、椛目の初めの頃でしたけれど、夜の御祈念に、むつ屋の田代さんが、その当時、婦人総代をしておられました。お参りして見えられた。そん時に、見えられたら、頂いた御理解が、田代さん、おかげで、当時の椛目ですね。椛目が立ち行きますと言うたら、私も、まぁだ、そんな信者さんに行ったこと無いですけれどね。やっぱ、御理解なんですよ。そしたら、田代さん、言われること。いいえ、親先生もう、本当に、親先生あって、今のむつ屋が立っておりますとこう言われた。そんなら、その時分、まぁむつ屋さんの独壇場と言うて良いくらいに、まぁ、いうならば、御用の面でも、信心の上でも、おかげの頂き頭でもあったし、また、御用の頂き頭でもありました訳です。田代さん、おかげで椛目が立ち行きますと。いいえ、親先生、もうほんなごて、親先生あって、現在のむつ屋がございますという様な、そういうね、私はその、いうならば、間柄というものは、ただ、形でなされておるといった様な事ではないと思うですね。もう本当に、当時の椛目を愛し、当時の椛目を、一生懸命に思うての御用が、取次者、私が、そういう言葉でも言わねばならないほどしのものがあったのに違いはない。いわば、その昨日のテレビの中からでもです。その方のおかげで、大役が務まったと、殿様が、家来の、まだ若い侍に言っておられるのに対して、いいえ、勿体ないとこう言うていけれるような信心がね、お互い、頂きたいですね。
ですからね、もう本当に、純粋なものでなからなければ出来ませんですよね。その純粋の度合い、度が、いよいよ高くなる。それには、どういう様なことにならなければならないかと言うと。昨日の御理解にございましたように、神の大恩を知れば、無事達者でと。神の大恩を知るという事。ただ、大恩を知る所から、その大恩に報いるという心が生まれてくる。その、報いるという心は、もちろん、無条件であり、もうこのくらいで良かろうといった様な、生半端なものではないという事。どれだけさせて頂いても、こんな事では相すみませんけれどもといった様なものである。という事を、昨日、申しましたね。その恩に報いるという、その心こそ、和賀心だとも申しましたですね。そういう、例えば、恩を感ずる所から、それが、神様に恩を感ずる所から、神様に対する神恩報謝の生活も、自ずと出来てくるのであり。人にそれを感ずる場合はです。何時かチャンスがあったら、機会があったら、あの時の御恩を返さなければという事になり。しかもそれは、一遍、お返しをしたから、もうそれで済んだというのでは、さらさらないと、という様なものが、教主の恩に報いることだと思う。
昨日、御祈念の後に、吉井の方達が、みんな参って見えられますが。波多野さんが、今朝から、お夢を頂いたと言われる。ある熱心なご信者さんが、ここに、着物のお供えをなさっておられる。それが、どうも、立派な着物だけれども、古い着物の様である。そして、その人が思うてござる事が、ようその波多野さんに分かる訳ですね。お夢で。それが、少しこう、汚れておるけれども、洗濯の方だけ、クリーニングだけは教会の方でせらっしゃるからと思うてお供えをしておる。お供えをしてるんです。それが、汚れておる訳なんです。その人はもう、ここの信者でも、第一人者なんです。その人は。だから波多野さんに申しました。あの人ですら、そうじゃからねぇと言うて。思いとか、真心というものは、もう、限りが無いものだと。お供えをしよる。ほんなごつなら、クリーニングでもしてからお供えするのがほんなごつだけれども。クリーニングは、もう教会の方でさっしゃったっちゃ良かろうと、こう思うとる訳なんです。それで、私は、それに対して、今、そん時にもう、しきりに思うておったことでしたから、話したことでしたけれども。
その前の日に、森部の高山さんがお礼に出て見えてから。もう親先生、この前から、お祭りを仕えさせて頂いてこの方、もう、毎日毎日が、こげんおかげを頂いて良かろうかの連続でございますというお届けがあった。皆さんも、あちらへお参りになった方は、私の話を聞いて下さったと思うのですけれども。私が、あそこで申しました。今日のね、高山さん、今日のお祭りが、まぁいうならば、本当のお祭りよと。もう、こんくらいで良かろうといった様なものは、みじんも感じなかった。と言うて、もう、沢山のお供えを、見事なお供えをという意味じゃないですよ。その思いの丈が、このお祭りに現れておるという事です。その話を、昨日、高芝さんが、午後から参って見えてから、本当に、お互いの信心というものが、本気で、真心、真というものが尽くし抜かれなければいけんなと。特に、宅祭りと言えば、謝恩祭という事である。いわゆる、恩が分かったから、恩に報い祭るところのお祭りだ、謝恩祭というのは。ですきん、こんくれぇで良かろうという事だったら、もうお祭りにはならんて。そんなら、その人の、いうならば、財産の程度というか、信心の程度でね。千円でお祭りを仕える人もありゃ、百円でお祭りを仕える人もありましょうけれども。その百円のお祭りでも良い。思いの丈を、それに込められておればそれで良い。あそこはあげんじゃったけん、真似せんならんといったような事は、さらさらない。そげなことでは不浄が付く。そんな話をしましたら、ほんなごっですもんねぇと、私も、あん時、そげん感じましたち。その、川の物がお供えが無いから、高芝さん、買いに行って下さいちいう事。高芝さんと、永井さんとが二人でいかれたんでしょう、確か。そしたら、お鏡さんでっちゃ紅白じゃけんで、鯉も紅白が良かろうち言うちから、赤と白を買うてきたち言う訳なんですね。それが、真鯉と言うならば、緋鯉であるならば、値段も安いとです。けども、白鯉てん、その、緋鯉てんですから、値段も、えらい高かったらしい。いうならば、ほんなら、真鯉なら真鯉、緋鯉なら緋鯉一匹でも、十分お祭りは仕えられるのである。だから、高すぎると思うたばってん、まぁ、その何千円か出してから、二匹を買うてきたという。そしたらもう、本当に、わぁそげんと、おかげ頂いたというて喜んだとこう言うのです。
例えて、申しますとね。久留米の時分に、あの、三井教会で、初代の先生のお説教の中で聞いた事なんですけども。毎日、欠かさず参ってくるお魚屋さんがあった。けども、お魚屋さんですから、こう前かけかけて、生臭かですからね、その魚屋さん。だから、御無礼じゃからと言って、もう下の段から拝んでいる、昔は、魚屋さんがっせというものを持っていた、財布の大きな奴、がっせから、その手を突っ込んでから、手に当たったのが、お供えであった。その時期、一銭銅貨、五円、あー、一銭から五銭たいね。五銭から十銭とか、大きいのは五十銭というのがあった。五十銭銀貨ち言うのが。その、五十銭銀貨が手に当たった時に、やぁ、今日はおかげ頂いたというて、お供えをしよった。もうそこにその、純粋ですね。いやぁ、五十銭が当たった、こりゃ損した、五十銭事は要るめ、十銭で良か、昔は、お賽銭ちは一銭にきまっとったんですからね。それが、五十倍もじゃから。私の母がそうでした。朝の初売りがお供えでした。酒やら木炭やら売ってますからね。一合、角打ちに来る人がある時には十銭。黒い、竹の真っ黒になった筒がありました。それが、その、お供えの入れる筒でした。今、覚えております。それで、お酒が、一番初めに、一升売れると、やっぱ、安いのでも八十銭ぐらい。今日はおかげ頂いたとこういう訳である。それがね、真心なんですよ。しかもまぁ、私の、その時分の考えから言うと、まぁおかげにつながる。もう、今日はおかげ頂いたというのは、今日は、商いがあるぞという事に繋がる訳なんですよね。だから、まぁ、おかげに繋がるけれども、そのお供えの心の純粋さがね、おかげを頂くんです。いわば、その高山さんのところ、皆さんにお手伝いした人達が、お供え物を買ってきたりなんかして、立派なものが、その時に、高山さんが行ってから話された事でしたけれども。昨日までは、親先生もう、主人がもう、ぐてんぐてんに、いわゆる病気ですから、飲まれるのが病気なんですから、どうにも出来んごとある。何日間飲み続けて、今朝からはぐっすり、前後不覚で眠むっとるとこう言うてある。もうおかげ頂いて、そら、高山さんも、信心が、だいたいあるとですから。神様ごと、いざこう言やせんけれどもですね。そげんせんでんて言ったような心が、誰もかけるもんがおりません。今、息子夫婦も大阪の方へ行っております。ほんの、自分一人でお祭りですから、もう、今日という今日のお祭りだけは、もう、出来る限りの事をさせて頂くぞというのが、今日の初めからでございましたとこう言うのである。ですから、集まってくる、そのお供え、一つ一つの上にでもです、良いものが集まってくりゃ、あぁおかげ頂いた。そげんせんでん良かったい、一遍で良かったばってんというこっじゃなかった訳ですね。紅白の二匹いたら、あぁおかげ頂いたである。そん時に、私が、その申しましたように、今日のお祭りこそがですね。いうならば、いっぱしのお祭りであっただろうとこう言う。ところが、だからですね、例えば、謝恩祭、お祭りを仕えて、そのお祭りを境にね、おかげにならなければ嘘ですよ。でないならば、自分の思いが欠けておったと悟れという所をですね。それこそ、確かに、お供えだけはしとるけれども、ちょっと不純なものがある。不浄がかかっておる。まぁこんくらいでよかよかがある。洗濯は、もう教会の方でさっしゃろうけんでという様なものがある。だから、これは、金高の多いとか、品物の良い悪いじゃないのです。その思いなんです。いわゆる、おかげ頂いたという、その心なんです。五十銭銀貨が手に当たった。いやぁ今日はおかげ頂いた。もう、惜し気もなからにゃ、悪しげも無い。そこに、私は、神様に通う何ものかがある訳なんです。それが、おかげにも繋がる。それが、段々、一段一段信心が進んでいき、先生とも言われるという事は、金光様の先生という事じゃないと思おうですね。信心が進んでいくという段階の事を、まぁ言っておられると思いますけれども。にわかに、やはり、先生にはなれない。一段一段信心が進んで行く。しかもその、一段一段進んでいく信心の焦点というのは、どこに置かなければならないかと言うとです。いわゆる、神様の御恩が分かり、大恩が分かり、その恩に報いる心、恩を感ずる度合いと、それに報いる心というものがです、連れのうた信心。そういう、私は、信心には、どうでも、やはり、真だ真心だとこう言われます様に。それが、やはり、貫いて、しかもそれが、一段一段、本格的なものになっていかなければならない。そういう信心が出来る所からです。私は、本当に、その方のおかげで大役が務まったという事になり。いいえ、勿体ないという事になり。どうでしょうね、これが、神様と、私共の仲に、お前の信心によって、お前の周囲周辺の人が、このように助かるようになった。本当に、神も嬉しゅう思うぞという事になり。いいえ、勿体ないという事は、私自身がおかげを受けておるという実証なのですから、有難いという事になり。田代さん、おかげで椛目が立ちます。いいえ、親先生のおかげで、現在のむつ屋がありますという、そういうね。いわば、神様と私共、また、取次を願う先生とご信者の仲がです。そういう風に育って行かなければならない。例えば、ほんなら、ほう、こらよかもんばあんた持って来てくれたのと言うて、その着物を頂いたとしましょうか。せっかくなら、あんた、洗濯どんしてから持ってくりゃよかところえち。言やせんでん思うたら、もうそれだけで、いや、そういう関係とは生れないでしょうが。
この辺までで良かろうという事はない。神信心も手習いも同じこと。一段一段進んでいくのじゃと仰るように。例えば、その真と言うても、その真心というてもです。それが、一段一段、本当なものになって進んでいくという事。これも、限りが無いほどですから、有難いのです。私共が、ただ、自分が有難い有難い、とにかくもう、金光様の信者を、沢山いみらかそうといった様な、この意欲、願いというものはです、持った時代があった。けれども、今から考えてみると、不純なものであったという事。いうなら、私の我情がそうであった。けれどもその、我情で神様に向こうた事だけは、これは、神様が認めて下さっただろうけれども。一段一段信心が分かってくるに従ってです。お導きをする人達が、助かってくることになった。初めの間は、ただ、がむしゃらにお導きをしたというだけである。いわゆる、金光様ファンであったというだけである。それが、段々、本当なものになってくる。その、本当なものになっていくという事を楽しみに、おかげもまた、本当なものになっていくという事が有難い。そこから、いよいよ、純粋な真が現わされてくる。そこに、私は、神様の喜びがある。本当に、その方のおかげでという事になり、いいえ勿体ないという、神様が、私共の、もう何とも言い知れぬ、有難い間柄というものが生れてくる。信心は、そこまで行かなければ、私は、大体は、本当に、いわゆる、神様と交流し続けておるといった様なことにはならないと思う。今日の御理解の中から、今日は、神信心も手習いも同じこと、一段一段進んでいくのじゃと、にわかに先生にはなれぬぞという所に、大体、焦点をおいてお話しましたですね。どうぞ。